人生振り返り(大学院まで)

自分の人生でハマったものを振り返る

 

 

幼稚園

生き物が好きでゲームが好きな普通よりちょっと落ち着きのない子供だった。

 

昆虫を好きになった最初の方のきっかけは幼稚園のお誕生日会で配られた小冊子だったと思う。そのあとに母が知人に唆されて買った学研の図鑑セットが決定的だった。

当時買ったものと同じ図鑑。なつかしい

特に第1巻昆虫Ⅰと第2巻昆虫Ⅱと第11巻飼育Ⅰは背表紙がボロボロになるまで読み込んだのを覚えている。

どれだけの昆虫を知っているか?みたいな話になり、Y君がなぜか張り合ってきたのを覚えているのだが、なぜ張り合うのかよく分からなかった。

なんでこいつは昆虫の知る知らないで喜んだり怒ったりするんだろう?と不思議でしょうがなかった。どうも男兄弟で兄貴がいたりすると競争心が生まれやすく、そういった奴はだいたい兄がいる弟のやつだった。

敵の概念を知ったのはファミコン

友達の家で初めてファミコンを見ていると友達が敵が、と言ってきたが、そもそも「敵」という意味も分からなかった。テキって何?と聞くと、敵に当たると残機が減るので避けないといけない、そうしないと残機が無くなりゲーム終了になるからゲームを続けるには、敵を避けないといけないらしい。

 

当時埼玉に住んでいて、まだ生き物のいる余地がたくさんあった。家のすぐ裏には田んぼがあったり、空き地がたくさんあったりしたのでイナゴやトノサマバッタ、ザリガニ、ミズカマキリ、メダカなどは捕まえることができて、とても楽しかった。

 

幼稚園に入りたての頃、家の裏にある田んぼの用水路で友達と一緒に遊んでいた。金属製の樋を渡れるかみんなでやろうということになったが、落ちて溺れてしまった。今でも口の中に入ってくる濁った用水路の臭い水と共に友達の笑い声は覚えている。

 

落ち着きのない子供だった。あまりに落ち着きが無かったので、ある時、幼稚園の先生からバレリーナと言われてしまい、それから悪口としてバレリーナと呼ばれるようになった。周りからこいつは落ち着きのない馬鹿だと思われていたのだろう。

 

周りの友達が公文に行くというので、自分も行きたいと言い、通わせてもらった。

幼稚園のころ、公文で何をやっていたのか覚えていないので現行カリキュラムを見てみた。

www.kumon.ne.jp

見ていて思い出したのは、足し算が始まってうれしかった、ということ。何か二つの数を足して別の数字をある規則に従って導く行為が楽しかった。が、ファミコンとか虫取りの方が好きだったので、ハマったというほどではなく、仕方なくやっていたという感じ。

漢字はわりかし普通よりもできた方だったと思う。理由は緑色が好きだったから。

父親がドライブが好きでよく連れていかれた。が、車中は何もすることがないので、仕方なく好きな緑色である高速道路の標識が目にとまるせいで、なぜか交通標識が好きになり、標識だけ乗っている絵本を買ってもらった。そのせいで標識に書かれている漢字は書けていたらしい。

小学校

サッカー少年団に入った。(家がマンションだったので)マンションの下で友達と遊んでいると、ちょうど家にいた母から、小学校でサッカーやってるみたいだから行ってごらんと言われて、友達と一緒にその体験会に参加したのがきっかけ。

 

最初の数か月は基本的な蹴り方とかドリブル、シュート、ヘディングの仕方とかセンタリングとか基本的な動作を習った気がする。実際のゲームの中でどうする、こうするみたいな戦術的なことは教わってなかったし、できなかったと思う。

 

初めての試合は隣の小学校の少年団が相手だった。結果は0-10でボロ負け。

ハーフタイムだか、試合後だか忘れたが、「お前らは金魚の糞か!」とコーチに一喝されたが、そりゃ試合したことないし、練習でそんなポジションを意識すること言われてないので、ボール方向にわらわら集まるのは仕方ない。

 

低学年までは土日に習い事の一つみたいな感じでのほほんとやっていたが、どうもサッカーもプロ野球みたいになるらしいという話がテレビや友達を通して入ってきた。

空前のサッカーブームになった。1学年でなんとか11人集まるくらいだったのが、倍以上になった。隣の少年団は1学年100人を突破したらしいという噂を聞いた。実際ユニフォームの背番号が三桁のやつがいたので本当だった。

 

虫取りは相変わらずしていた。

山が無かったため、カブトムシなどはキャンプに行ったときに捕まえるか、デパートやペットショップで買うしかなかった。

友達の家の近くにミカンの木があって、そこにカラスアゲハの幼虫がいたのでそれを捕まえて、そのまま手に乗せて友達のお母さんに見せて怒られたことがあった。別に驚かせるつもりはなくて、単に捕まえたことを知らせたかっただけだった。

小学校3年か4年の時にカブトムシだけでなく、クワガタも育てているN君と仲良くなった。N君は親と一緒に槍ヶ岳まで行き、捕まえた虫を標本にしているらしく、すごくうらやましかったのを覚えている。けど標本の作り方なんてよく分からない。上で挙げた図鑑に標本の作り方が載っていたので見様見真似で死んでしまったミヤマクワガタの標本を作ろうとしたが、形を整えるのに成功したものの、保存方法がよく分からず、結局そのまま納戸に放置してしまった。

 

N君に受けた影響で外せないのがミニ四駆。大半のお年玉がミニ四駆のパーツに変わった。

ミニ四駆はカスタマイズするのが楽しかった。まずモーターを変えることでより速くなるが、今度はカーブでコースアウトしやすくなるので、ローラーを変えたりしてコーナリングの質を上げる必要がある。

その他さまざまなツールがあり、改造するのも楽しいし、改造したマシンを眺めるのも楽しみの一つになった。

なんだかんだで楽しかったのはツールを求めて、松戸の大きなプラモデルショップまで遠出したり、隣町の大きなおもちゃ屋に設置されている大きなコースでミニ四駆を走らせに友達と自転車に載って通ったりするのが楽しかった。

一番最後に作ったのがプロトセイバー。コックピットを中抜きし、メッシュで覆い、フロントにはエポキシパテでオリジナルバンパーを作り、前後のローラにはRCカーに使うベアリングローラを何故か装備してた

惜しむらくは一度でいいからタミヤの公式レースに出たかった。

 

高学年になると、サッカーの比率が徐々に強まってくる。

きっかけは3年生の時に父親がなぜかサッカーのコーチになってしまったことだ。

サッカー経験ゼロなのになってしまった。

当時、サッカーを経験していた方が珍しかった。今だったら親たちからクレームが来る話だと思う。

なぜ父親がコーチになった経緯は何となく訊いたことがあるが、休日の試合引率で保護者は車出しをしないといけない。それで年の近いコーチ達と仲良くなり、お酒を一緒に飲むようになった。要は酒友達の頼みに応じた、というわけだ。

 

そのせいで、コーチなりたての頃は逆足であるの左足の練習を強制的にさせられた。それまで勉強や習い事を強制されることは全くなかったので、とても嫌だった。強制的にさせられた期間はそんなに長くなかったが、上手くはなりたかったので我慢して練習した。それがのちに活きたどうかはよく分からない。ちなみに同い年であるイニエスタも父親に逆足の練習をさせられていたらしい。これが才能の違いというやつか。

 

試合でうまくいかなかったりすると、家に帰ってから反省会が始まった。あのプレーは何だ?なんであそこでああしなかった?など。ただし、怒られはしたが、殴られたりしなかったので、一線は守っていたようだ。父親の時代は鉄拳制裁は当然の行為だったはずだがそれが無かったのは、父も根っからの体育会系でなく指導の仕方がよく分かっていなかった証拠だ。

 

今振り返ると、サッカーの技術は上手くなりたいとは思っていたが、勝ち負けにこだわっていなかった。それよりもいいプレーが出来たかどうかが大事だった。ただ、負けると試合が出来なくなってしまうのでそれは嫌だった。なので、勝ち負けにこだわるチームメイトから煙たがられた。

 

高学年になると、公園や小学校で毎日サッカーをするようになった。当時は公園でもサッカー禁止なんてところは無く、ボール遊びができるように親切にも壁まで設置してあり、家近くに(徒歩5分圏内)に出入り自由な小学校が2つもあったので、一人でもサッカーができる環境がそこここにあった。小学校が家の近くに5分圏内に2校もあって、今のような監視カメラがあって出入り禁止ではなく、公園代わりにみんな思い思いに遊んでいた牧歌的な時代だったので、学校行く前に朝練をしたりするようになった。

 

中学校

サッカー一色だった。

隣の少年団のチームが県選抜に選ばれるようなやつがいるレベルで、そういったやつらと中学は一緒になった。そのため最初はついていくのにいっぱいいっぱいだったし、朝練は毎日外周ダッシュリレーがあったので辛くて辛くてしょうがなかった。

長距離は小学校の時にマラソン大会で2位になるくらいには長距離には自信があったが、それでもつらかったし、成長期が遅れたので先に体力がついてきたやつらに合わせるのがキツかった。

体力的なキツさもだが、サッカー経験者の先生がいなかった。なにやら前年かその前の年に離任してしまったらしい。しかも校庭は野球部と女子ソフトボールに挟まれたところでしか練習できない。なので一年生は30人ほどは最初ほぼ全員球拾い。今考えると、県でも有数のレベルのやつが入ってくるのに、指導者すらまともにいない環境で3年間過ごすのはもったいない。今はジュニアユースがそこここにあったりすると思うので、もっと選択肢が増えているのだと思う。

入部当初のオリエンテーションで副顧問に言われたのが「たとえ入っても3年間試合に出れない人がいますが、それでもいいですか?」みたいなことを言われたと思う。その副顧問はたしかメインが別の部活をみていたらしく、普段全く顔を出さない人だった。まぁサッカーが好きだから関係無いや、くらいにしか思っていなかった。

なのでメインの顧問の先生は別にいた。事務の若い人で普通にタメでじゃべれるような人だった。

後日談だが、その事務の人はその後サッカーを勉強し、指導者として県中体連で優勝させるまでになったという話を浪人生してた頃に聞いた。うちの父親とは大違いだと思った。

 

中学2年の頃に地元にジュニアユースができるというので、そのチームのセレクションを受け合格した。といっても自分たちの学年でセレクション受けたのは8人だけで全員合格したが、実際チームに入ったのは自分も含めて4人だけだった。

 

試合は最初はよく負けていたと思う。中学1年生主体のチームが中学3年主体のチームとやるので仕方なかった。が、徐々に勝てるようになってきた。練習内容は非常に理屈が通っていた。ディフェンスの仕方やチーム戦術、色々なことを学んだ。僕らの代では結果が出せなかったが、一個下の後輩はJの下部組織であるジュニアユースに勝って県で優勝した。

 

当時、自分のほとんど全てはサッカーだった。今は分からないけど、当時は中体連(学校の部活)とクラブチームの二重登録は禁止だったので、選手登録はクラブチームにし、クラブチームでの練習はもちろんのこと、中学のサッカー部にも在籍して中学の部活の練習にも毎日参加していた。サッカー漬けだった。

 

中学3年になり、サッカーの方は、クラブの方は県予選敗退(Jのジュニアユースともやったけどボロ負けした)し、引退となった。中学校のサッカー部も中一の初めには10-0で勝っていた隣の中学に最後の大会で逆転負けをした。中学の3年間の指導者の力は重要だ。

すでに受験の足音が聞こえてきたので、周りにつられて塾に通うことになった。最初は高校なんてサッカー強豪校に行ければいい、と思っていた。模試の判定には最初はサッカーの強い高校を書いていた(サッカーで有名なところしか知らなかった)。しかし、模試の結果を見ると、あっさりA判定が出てしまったので拍子抜けした。塾の面談とかでもう少し上を目指してもいいのでは?唆されたというのと、周りが早慶目指していたりしていたので、自分もちょっと頑張ってみようと思い、県立のトップ高校を目指すことにした。直前期までにはA判定を取れるようになったので、最初は出願もそこにし、滑り止めの高校にも推薦合格したが、文化祭に行ったら超絶つまらなくて行きたくなかったので、ワンランク下の県立高校に出願先を変更した。

 

ワンランク下にしたのは、ジュニアユースの監督にも相談して、その滑り止めの高校は高校サッカー界隈で聞いたことないが、出願先を変えようとしてる高校は物凄くサッカーを教えるのがうまい先生がいるからいいかもしれない、と教えてくれたので一度も高校見学行ったこともないその高校を受験することに決め、無事合格した。

このころ母親が家を出て行ってしまった。マンションのエレベータの中で思いっきり泣いた。丁度ワールドカップが開幕していて、全試合がNHKBSで放送されていたので、サウジと何かのつまらぬ数試合を除いたほとんど全ての試合を録画して気を紛らわした。

このころにエヴァンゲリオンにハマる。自分の境遇に投影させて何とか自我を保とうとさせていたのかもしれない。

高校生

高校ではサッカーに加え、勉強を頑張ろうと思い、ノリでマスター・オブ・整数を買った。

この本との出会いが大学での方向性を決めた

今は持っていないが、冒頭に整数は数学の女王だ、とか、整数は直接世の中の役に立たないがその純粋性こそ高嶺の花だ、みたいなこと、そして京大入試で頻繁に出る、みたいなことが書かれていた気がする。

京都大学を認識したのはこの冒頭文が初めてだと思う。ただし、意識していた、というだけで特に何かをしていたわけでもなく、普通に授業と課題をこなしていただけだ。それだけでも部活との両立が大変だった。ただ、訳も分からず高校一年のころにマスター・オブ・整数に挑んでは撃沈をしていたのはいい思い出だ。

 

サッカー部の顧問の先生はめちゃめちゃ厳しかった。控えめに言って地獄の日々だった。何度も辞めようと思ったけど、1年の夏合宿は本当に死ぬかと思った。死んだ方が楽になれると思ったが、辛すぎて途中で辞めてしまったが、もう一度やることにした。今考えると、エンジニアも辞めようとしたけど、辞め癖はこの頃ついたのかもしれない。

1年生の時の3年の先輩までは冬の選手権前に引退する、というのが通例だったが、僕らと2年の代は基本冬の選手権までやる、ということになった。

とにかく走らされた。練習試合の合間もずっとダッシュ何十本も走ったりした。しかし慣れてくるとそれも普通になってくる。人間ってすごい。三年にもなると夏の走り込みも余裕がでてきた(が、つらいはつらいw)。2年、3年となるにつれ戦績もよくなり、地区大会でも優勝したり、県の本大会まで出れるまでになった。おかげで1年生が30人以上入ってきて大変な大所帯になった。3年生のころインターハイ県予選でベスト4まで行った。残念ながらレギュラーにはなれなかったが、一応ベンチには入れるようにはなった。

 

インターハイ県予選でベスト4で終わった後、僕は正式にサッカー部を辞めた。理由は大学受験に専念するため。さすがに京大志望だったので冬の選手権までは出来ないと思った。それにベスト4というものに満足もしてしまっていた。

ただ、この辞めることを顧問の先生に言いに行くとき、バスケ部の奴からの「勉強は浪人してからとかでもできるけど、部活の仲間と一緒にできるのは今しかできないぞ」という一言を言われたのを未だに覚えている。一応、勉強もしていたし、部活もやり切った感が出ていたので、当時は何も思わなかったが、この時の後悔が後に続く。

 

そして無謀にも京都大学を受験して爆散した。そして、自分が引退した後のサッカー部は冬の選手権で県ベスト8になった。県優勝校に1-2で惜敗した。

 

浪人生

代ゼミで浪人した。勉強もそれなりにしたが、結局中学時代のクラブチームでコーチのバイトをしていた。週3と土日のいずれかに出ていた。

志望校を京大から東大に変えた。理由はせっかく頑張るなら東大京大のいずれかだと考えていた(そもそもそれがおかしいw)。そして、当時東大のサッカー部はそこそこ強かった。確か都リーグ1部か2部だった。なので東大に行きたいというより、東大のサッカー部に入りたい、という謎のモチベーションだった。

しかし、数学の問題を解くのにハマってしまい、受験期直前になって生物系志望から数学系志望に変更してしまった。そして、センターで爆死して足切りになった。そして仕方なく受けた千葉大数学科も落ちた。

一応、私立も適当に受けたが、全落ち。

過去問も一切解かずに、受験カレンダーだけで数学科を適当に選んで受験したらそうなるわw

二浪目に突入した。春期講習を受けていたら、何故か補欠合格の連絡が来た。流石に二浪はしたくなかったので承諾して入学した。

今考えると、過去問を解かなかったのは、解きたいけど、どうせ解けないという謎のジレンマに陥っていたから。とっとと解きまくっておけばよかったと反省している。後私立の過去問もちゃんとやれと過去の自分に言ってやりたい。

そうすれば流石に東大はきびしかったと思うが、もう少し他の所にも受かっていたと思う。

 

大学生

体育会サッカー部に入ったが、高校のような環境ではなかった。確かに高校は相当きつかったものの、色々と環境が整っていたり、やる気のある仲間しかいなかったけど、ここでは授業などで途中からしか参加してこないし、同学年でフィールドプレイヤーで毎日練習参加してるのが自分一人しかいなかった。ほかの奴はキーパーの奴と桐蔭だけど中学までしかサッカー部にいなかったやつくらいしかいなかったし、先輩たちのサッカースタイルも粗削りなタイプの人が多かった。この違いには参った。インターハイ後に先生に辞めるの言いに行く直前にバスケ部の奴に言われた言葉の通りだった。あの時にしかできないサッカーだったのだと、思いっきり後悔した。

 

だが、紆余曲折あり、先輩とも仲良くなり、いい後輩にも恵まれ、結局リーグ1部でずっと降格せずにプレーすることができた。もうこの頃には高校の頃がどうのこうのだのということは全く気にしなくなっていた(それはそう)。最初は最悪だったが、段々チームが成長していく、良くなっていくのを味わえるのは何とも言えない良さがある。その中で貢献できることは望外の喜びだ。

 

惜しむらくは、非常に怪我が多かったこと。捻挫が癖になってしまい、約1年間まともにボールが蹴れない日々が続いた。これは本当に辛かった。コンディションが上がればいいプレーが出来るのは間違いないのにできないもどかしさは本当にメンタルがえぐられる。。

 

そして、今度は大学4年の冬の天皇杯までやってやろう決意した。大抵の人は3年の就活前に辞めてしまうが、そもそも大学院にも行くことにしていた。高校の時のような後悔はしたくない、そう思った。

なので、周りは引退する人もいたが、自分ともう一人の同学年のやつだけは最後の天皇杯予選までやりきった。

 

数学の方は2年のころから自主ゼミに参加したが、先生のレベルについていくのがいっぱいいっぱいだった。整数論の初歩の本を輪講したが、フルボッコにされた記憶しかないw

ただ、振り返ると数学を勉強していくにつれ、稚拙だったなと思う。大学数学のお作法、というか本の読み方が今もそうだけど、今以上になっちゃいなかったのは間違いないから。

専攻は代数学にした。これは高校時代に出会ったマスター・オブ・整数の影響が大きかったように思う。

無事、大学院入試も内部入試にも受かり、外部も国立2校受かった。

しかし内部の方は先生の都合もあり、家から通える国立大学の方に行くことにした。

大学院

実は家から原付で通える距離にあるので大学のサッカー部の練習には参加していた。

そして、先輩の社会人フットサルチームに参加したり、地域の社会人リーグに参加したりした。一番充実していたころかもしれない。

基本勉強や研究をしてたので、正直サッカー、フットサルは惰性といったらあれだけど、気分転換みたいな感じになっていた。ただ、心身はそこそこ充実していたと思う。

 

 

小学生の夏休みの思い出

小学校3,4年くらいの頃、父親がキャンプ用品を揃えて夏休みはキャンプに行くのにどうやらハマっていて、もしかすると母が行きたいと言い出したのかもしれない。近所のママ友や世間体を気にしてのことなのか、それとも子供たちのためを思ってのことなのかは今となっては分からない。

キャンプ場は確か長野県の涼しいどこかだった。白樺がたくさんあってすごく朝は寒かったのを覚えている。

キャンプと言えばカブトムシとクワガタとりに夢中になろうとしていた。なろうとしていた、というのは結局いなかったのである。キャンプに行く計画立てる際、全国のオートキャンプ場が載っている雑誌を買って読んでいた。そこにはキャンプ場のステータスが載っていて、カブトムシの有無まで乗っており、そこにはいないというのを知っていたのでキャンプへのモチベーションは最低。なので昆虫採集を封じられたぼくはやることが無くなってしまった。

その代わり、父親の作業(テントはり、用具の準備など)を手伝わされた。嫌な思い出である。
ただ、そのキャンプ場で友達ができた。多分女の子がいたのは覚えている。年は同じくらいだったと思うが、どんな顔だったのかも忘れてしまった。

ただ、なんか手をつないだ記憶があるようななかったような、淡い思い出があったように勝手に思っている。
恋心など何もない。ただただやることがなくメンドクサイとしか思っていなかったが、今思い返すといい思い出だ。
朝寒すぎてウインドブレーカーが必要なほど死ぬほど寒かったが、生乳で作ったソフトクリームと湧き水がすごく冷たくておいしかった。
他の出来事と交じっている可能性が大だが、なんかそれも年寄りの嗜みである。

帰り際に互いの住所を交換したので、しばらく年賀状が届いていたが、すぐに来なくなり、特に何も交流もなくなってしまった。

今だったらLINEの交換やSNSで交流するのだろう。同じように交流は徐々に途絶えるのだと思うが。

 

vsアビスパ福岡観戦記と見せかけた、フロンターレにハマるきっかけ

天神の屋台で飲んだ後にノリで書いているので要領を得ないことになっていると思うが書いてみる。

 

一応、フロンターレとはうっすいが繋がりはあって、社会人一年目に住んだ町が武蔵小杉の二ヵ領用水のほとりのアパートに住んでいた。当時なぜか川崎に住みながら茨城県の社会人一部のチームでサッカーをする、という訳の分からん生活をしていたので、暇な時は近くの等々力競技場に足を運んでいた。

 

当時は応援というより、プレーヤー目線で観てた。今のように純粋にサポータとしての観かたではなかった。小林悠がルーキーだったころ。

 

その後、プレイヤーを辞めて、ITエンジニアとして働く日々を過ごしているうち、サッカーからは距離を置くようになり、今に至るわけだが、色々あって200連休をすることになったw

 

これには明確なきっかけがある。

すでに鬱になりかけていて、つけ麺が砂の味しかしなくなったころ、悪魔のようなささやきを得る。

 

以前勤めていた会社のサッカー部でフットサルに参加した時の先輩がきっかけ。

コロナも一服したくらいの時。そのサッカー部は以前勤めていたりしていた会社の人のためのものだが、元社員とかその知り合いとかも来て気兼ねなく集まってフットサルをする感じ。初心者、経験者入り混じってワイワイやる感じ。

 

元社員の先輩が「退職した矢先にコロナが始まったせいで二年間無職でずっと浦和サポしかしてない」と言いだした。

レッズの試合に行きまくってAFCの試合も海外遠征してたらしい(コロナでも海外遠征する機会があったのかは謎)。

 

何それ超面白そうじゃん。ていうか二年間仕事しないとか何なの?って内心思っていたが、マンネリ気味だった仕事を思い切って辞めてみるというのもアリなんだと思って鬱っぽくなってて頭のネジが馬鹿になってたので本当に辞めてしまったw

理由は他にも家庭の事情もあったりするのだが、辞めるのもありなのでは、という気付き、得たのはこの時。

 

辞める前の一年ほどDAZNフロンターレの試合を見ていたので選手のことはある程度分かっていた(観ていた当時とは色々と選手が変わってて、なんか強くなってるので戸惑いはあったw)ので、思い切って久しぶりに等々力競技場に行くと、そんなに雰囲気は昔とは変わっていなかった。スタジアムは改修で大きくなってたけど。

 

等々力での試合を見るにつけ、会員になり、数万もするPSGとの試合も見に行くようになり、気づいたら福岡にまで来るようになった。

 

福岡に来たのは、元々JAL株主優待券があったので、これを使う言い訳が欲しかったというのもある。

 

ワーケーションがてら前乗りして福岡入りしたけど、ちょっと計画性が無さ過ぎたので下調べの必要性を感じた。

 

一応、試合についても。

声出し応援について。

いきなりアウェー戦のゴール裏参戦ちょっとやりすぎた。

声出しといっても、マスク着用がマストでしかも蒸し暑かったので結構体力的にはキツいと思った。

普段は指定席メインで観戦していたので正直、ほとんどチャントを覚えてなかった。しかもコロナの時期に観戦をし始めたので、声出し応援にちゃんと参加するというのもこれが初めてだった。軽くyoutubeでおさらいした程度。

基本的には有名な歌の替え歌なので、すぐに口づさむことはできた。

隣の人がすごい声を出しててそれに乗っかれた、というのも大きい。

某クラブだったら間違いなくキレられる所業だったけど、応援団?の方が試合前にチャントの歌詞カードを配っていてすごく親切だった。

 

応援についていくのに精いっぱいだったので、試合展開とかに集中できなくなったけど苦楽を共にできるのは楽しい。サッカーを戦術や技術目線で観たい時はメイン、バックスタンドとかから観るのがやっぱりいいなと思ったけど、熱さを味わうならゴール裏なのは間違いない。

 

しかし家長の逆サイドからのフィードをトラップする技術はさすがだった。

 

 

出会った人たち

エンジニアに戻るにあたって、最初の会社でお世話になったりあこがれた人達を思い出してみる。

生まれたヒナは初めて出会ったものを親とみなすじゃないが、新人の頃に出会った人達から受けた影響は大きいはず。

  • 先輩1

休憩スペースで文系だった同期に線形代数の基底の変換行列の導出について教えていたら、休憩しに来た先輩がやってきて、話に交じってきてくれた。 一通り説明すると、「なるほど、おもしろい!」と指をパチンと鳴らして仕事に戻ってしまった。何が面白くて指を鳴らしたのか今でも分からない。
その先輩が勉強会でラムダ計算についてしゃべってくれたことがあった。中身自体は全く理解できなかったけど、スライドも時折笑いをまぜる発表スタイルが面白すぎてあこがれた。

  • 先輩2

客先常駐先の部署の人。あまり関わり合いがなかったけど、ある時大量のJUnitで大量のテストコードを書いてそれをJenkinsで回す、
みたいな辛い仕事をしていた。その人は普段忙しくてあまりオフィスにいないのだけど、自分のような新人とかにも色々声をかけてくれるような人だった。
全く仕事を一緒にしたことがないのだけど、いわゆる仕事のできる人。 ある時、その先輩が通りがかった時にその仕事の話を訊いていて、あまり自分がやっている事がしょぼすぎて、思わず涙が出た。

  • 先輩3

まったくやったことのない、サーバの構築やインフラ周りの仕事を振ってくれた先輩。 分からないことがあったら、「分からない?よし、何回でも教えてあげるよ。分からなかったら何度でも聞いて」と言って要領を得ない自分に根気強く向き合ってくれた。
昼ごはんとか年中一緒に行ってくれて、技術の話とかいろいろな話をしてくれたのはありがたかったし、とても楽しかった。

  • 先輩4

サーバ構築やネットワーク設計などで度々お世話になった先輩。先輩というほど近くもないぐらいベテランの方。
その先輩がすごい無茶な仕事を引き受けた際の作業日誌に「とにかく最初は情報を集めまくれ」「サーバのマニュアルは枕の横において肌身離さずもって読み込め」
みたいな技術者の意地みたいなことが書いてりしていて、そのプロセスがとても気合が入っていて面白かった。
炎上案件にヘルプで入ってくれた時にも、こっちが要領を得ない説明なのに超エスパーで必要な情報を的確に提示しながら徹夜で対応してくれたのは本当に助かりました。

他にもたくさんいるけど、ぱっと思いついて文章に起こしやすそうな方々だけだけど、とても恥ずかしくもあり、なつかしい。

やっぱりエンジニアに戻ることにした

桜が全国的に咲き始めた頃に福岡に行った。

 

きっかけは以前の職場の近くに長浜ラーメンがあって、どうも味が変わったらしく、本場の味はもっと違うよ、みたいなことを思い出しから。

それに九州に行ったことなかったので。

 

国内旅行はあまりしたことがなかったのでいろんなことに気づいた。

- 成田空港は遠い

都内からだと意外と遠く、チェックインギリギリになってかなり冷や冷やしたので、今後はできるだけ羽田から行くようにしたい

 

- 耳鳴りが以前よりひどくなっていた

北海道や沖縄へ数回、海外2回飛行機に乗ることがあったのだけど、スイスに行ったときにめちゃめちゃ耳鳴りつらくて死ぬ思いをしたけど、それ以外の飛行機では問題なかったが、福岡に行くだけでめちゃめちゃ耳鳴りの症状が出てしまって辛かった。

 

- やっぱりエンジニアに戻ることにした

「令和」発祥の地が大宰府の近くにあって、そこで佇んで1時間ほど桜を眺めていたら、ふとエンジニアに戻ろうと思った。あまりに暇すぎて花見に来ている人々を見ていたら発狂しそうになった。

 

- 長浜ラーメンは福岡と東京では味はあまり変わらなかった

自分の馬鹿舌でしか判定してないので何とも言えないが、たいして変わらなかった。やりうどんの方がインパクトあった。